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科学が急速に発展する現代においては、ともすれば実用的な科学の発達や技術の進歩に目を奪われがちである。しかし、われわれが学問を発展させてきたのは、生活の利便さを追求するためだけではなかった。目標のひとつに、われわれ人類がどのような存在として進化してきたのか、その答えを見つけることがあった。そこに、われわれの行く末を考えるためのヒントが隠されている、そう信じてきたからである。
われわれ自身はいかなる存在なのか。それを知るにはさまざまなアプローチがある。そのひとつとして、消滅していった数々の化石人類の生き方を調べ、人類がどのような歩みを経て今日に至ったかを知ることが挙げられる。そのなかでネアンデルタール人から学ぶことは、とりわけ大きい。彼らこそ、われわれ現代の地球人の最後の隣人であり、彼らの存在を抜きにして今のわれわれを語れないからである。
ネアンデルタールとわれわれ現代人との関係で想い浮かぶのが、われわれの祖先が彼らとの間でかつて演じた交替劇である。その顛末、旧人として消えて行くことになったネアンデルタールと今日の地球世界の幕開けを演出した新人サピエンスという結末は、しばしば「ネアンデルタール人絶滅説」として語られるが、では、この直近の交替劇で一体何があったのか。何が両者の命運を分けたのか。その真相は、現代人起源論争に残された最大の謎のままである。
本領域研究は、20 万年前の新人ホモ・サピエンス誕生以降、アフリカを起点にして世界各地で漸進的に進行した新人と旧人ネアンデルタールの交替劇を、生存戦略上の問題解決に成功した社会と失敗した社会として捉え、その相違をヒトの学習能力・学習行動という視点にたって調査研究する。そして、交替劇の真相は旧人と新人の間に存在した学習能力差にあったとする作業仮説(以下「学習仮説」と称する)を実証的に検証する計画である。
具体的には、人文系・生物系・理工系諸分野の連携研究のもとで、①旧人・新人の間に学習能力差・学習行動差が存在したこと、②その能力差・行動差はヒトにおける学習能力の進化の結果であること、③その能力差・行動差の存在を両者の脳の神経基盤の形態差で証明すること、以上によって学習仮説を実証的に検証する計画である。そして、人類がどのような存在として進化してきたかについて、学習能力の視点に立つ新たな実証的モデルの構築をめざす。
領域代表者
高知工科大学・総合研究所・赤澤 威
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本領域研究は、20 万年前の新人ホモ・サピエンス誕生以降、アフリカを起点として世界各地で漸進的に進行した新人と旧人ネアンデルタールの交替劇を、生存戦略上の問題解決に成功した社会と失敗した社会として捉え、その相違をヒトの学習能力・学習行動という視点にたって調査研究する。そして、交替劇の原因を両者の学習能力差に求め、その能力差によって生じた文化格差・社会格差が両者の命運を分けたとする作業仮説 (以下「学習仮説」と称する)を検証する。
学習仮説の本質は、交替劇の真相を外的条件の変化に対する適応能力の優劣といった量的相違ではなく、学習能力という質的相違に求めるところにある。その相違によって、同じ外的条件の変化に対して伝統文化を堅持しながら対処した旧人ネアンデルタール社会と新文化を継起的に創出しながら対処した新人サピエンス社会とが対峙する時代状況が生まれ、両社会の間に生じることになった文化格差・社会格差が結局両者の命運を分けることになった。それが学習仮説の本質的意味である。
領域研究の具体的目標は学習仮説を検証することにあり、人文系・生物系・理工系諸分野の研究者による新たな視点や手法に基づく異分野連携研究の推進のもとに以下の研究を行う。
研究軸(1):旧人・新人の間に学習行動差・学習能力差が存在したことを実証的に明らかにすること。
研究軸(2):旧人・新人の間に学習能力差・学習行動差が生ずるに至った経緯を理論的かつ実証的に明らかにすること。
研究軸(3):旧人・新人の間の学習能力差・学習行動差の存在を両者の脳の神経基盤の形態差という解剖学的証拠で明らかにすること。
研究全体構想は、上記 (1) (2) (3) 研究軸の研究成果の相互乗り入れをはかり、その有機的結合によって学習仮説を総合的に検証することにある。そして、新人サピエンスに特異的な高い知能や彼らの現代的行動がどのような外的条件のもと、どのような経緯で獲得されたかを学習能力の視点から見極める道筋を拓き、われわれ人類がどのような歩みを経て今日に至ったかを俯瞰する新たな実証的進化モデルの構築をめざす。
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ヒトの進化の道筋に関する認識は、20世紀後半の遺伝研究の発展によって劇的に展開した。その好例のひとつが、ヒトの起源問題とともに論争の絶えなかった現代人の起源問題が決着したことである。新人サピエンスの成り立ちについて、旧人との直接の系譜関係 (旧人が新人へと進化した) は否定され、唯一アフリカの地で出現 (20万年前) したとする、今日では定説化した進化モデル「新人アフリカ単一起源説」が生まれた (Cann et al 1987; Krings et al 1997, 2000)。しかし、それは同時に、新たな疑問が生まれる時代背景ともなった。そのひとつが、旧人ネアンデルタールと新人サピエンスの交替劇の問題である。何が両者の命運を分けたのか。それは、現代人起源論争に残された最大の謎として世界中の考古学者、人類学者、遺伝学者が競い合う研究テーマとなった。
交替劇の原因については、近年、交替期 (アフリカでは20万年前以降、中東では10万年前以降、ヨーロッパでは4万年前以降) の時代状況 (自然・社会) に対する適応能の違いに原因を求める「環境仮説」(van Andel, Davies eds. 2003; van Andel, Davies, Weninger 2003; Finlayson, Carrion 2008; Stringer et al 2008)、技術・経済・社会システム等の優劣に原因を求める「生存戦略説」(Adler et al 2008; Joris, Adler 2008; Shea 2007, 2008)、両者の生業戦略の違いを強調する「生業仮説」(Bocherens et al 2001, 2005; Pettitt et al 2000, 2003; Richards, Trinkaus 2009)、言語機能の有無に原因を求める「神経仮説」(Klein 1998; Klein, Edgar 2002)、あるいは両者の間での混血を想定する「混血説」(Duarte et al 1999; Zihao, d'Errico 1999) 等の仮説モデルが相次いで発表され、実証的研究に付されている。
以上のような研究によって交替劇の存在を裏付けるデータは蓄積され、それがいつ、どこで、どのような経過をたどって進行したか、言い替えれば、交替期における旧人社会と新人社会の間の相互作用の概略がさまざまな角度から記述されつつある。ただ、既存研究は、そのほとんどすべてが、主としてヨーロッパ大陸の事例を扱い、世界的な視点に立つ普遍的な説明モデルは現れていない。本領域研究は、アフリカを起点としてユーラシア大陸各地で漸進的に進行した交替劇全体を対象として、その経緯を総合的に記述するとともに、その原因をより普遍的観点から解明することを目標とする。
交替劇の真相を、生存戦略上の諸問題の解決に成功した社会と失敗した社会として捉え、その相違を学習能力の進化の視点にたって調査研究する視点は世界的に嚆矢であり、交替劇研究のブレイクスルーを開くことになる。しかも、本研究では、これまで交替劇研究に取り組んできた専門領域 (考古学・化石人類学・遺伝学等) の世界に分断的に蓄積されてきた様々な専門知を、単なる寄せ集めではなく、学習能力という共有概念を媒介として統合し、ヒトの進化について新しい実証モデルの提示を目指す点においてきわめて独創的である。この全体構想は、交替劇論争に関する既設仮説モデルを検証し、より普遍的な知の体系を創出するという意味において、現代人起源論争の新たな展開という観点において学術的貢献はきわめて大である。
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本領域の特色は、全体構想の目的達成のために、人文系・生物系・理工系諸分野の研究者による新たな視点や手法に基づく異分野連携をベースとする新研究領域を創出するところにある。対象とする研究は従来、考古学、化石人類学、遺伝学などの専門領域のもとで分断的に取り組まれてきたが、本領域では、新たに文化人類学、発達心理学、生体力学、精密工学、認知神経科学、古神経学等とも連携し、しかも機械的な寄り合いではなく、各研究領域の作業仮説をすり合わせ、相互乗り入れを図り、その有機的結合のもとに学習仮説を総合的に検証する。このようなアプローチは交替劇研究において例がなく、当該テーマの研究にインパクトを与え、同時に、異分野連携研究のひとつのモデルとなる。
学習行動復元研究
本研究は考古資料の分析を通して旧人・新人の学習行動の実態を再構築するとともに現生狩猟採集民社会における学習行動のあり方を調査し、ヒト社会における学習の特性を明らかにする。そのために、具体的に以下二つの研究を行う。
(1)両者の学習行動の唯一の物証となる考古資料の分析を通して、両社会における学習行動と両社会の間に存在した文化・社会格差の性質を実証的に再構築する。(先史考古学・実験考古学・認知考古学等)
(2)文化的・技術的発展の違いが、個体の創造的認知能力の発現とそれを漸進的に継承する学習教示行動の相違に起因することを狩猟採集民社会と現代社会の比較により実証的に検証する。(文化人類学・発達心理学等)
学習能力進化研究
本研究はヒトを取り巻く環境の時間変動・空間的異質性が学習能力の進化に影響することを理論的かつ実証的に調査し、両者の間に学習能力差が生ずるに至った経緯の理論的根拠を明らかにする。そのために、具体的に以下二つの研究を行う。
(1) 理論集団生物学的研究に基づいて、ヒトを取り巻く環境の時空変化が学習能力の進化を左右すること、とりわけ環境の時間的変動・空間的異質性に対する適応として個体学習能力が強化される理論的根拠を明らかにする。(集団生物学・数理生物学・分子人類学等)
(2) 交替期における旧人・新人遺跡の時空分布と気候変動パタンとの関係を分析して、時代状況に対する両者の適応のあり方を明らかにし、環境変動に対する適応によって学習能力差が生ずるとする理論モデルを裏付ける実証データを提示する。(地球化学・古気候学・情報科学等)
化石脳機能研究
本研究は化石頭蓋・脳鋳型復元モデルの比較解剖学・古神経学的分析を行い、頭蓋と脳形態の進化プロセスを考察するとともに学習を司る神経基盤の形態差に基づいて両者の学習能力差の解剖学的証拠を明らかにする。そのために、具体的に以下二つの研究を行う。
(1) 両者の脳の比較解剖学的解析の基盤資料となる旧人脳の復元のために、旧人化石頭蓋高精度復元に取り組み、そのなかに収まっていたはずの脳仮想モデル(化石脳)を生成し、頭蓋と脳形態の進化プロセスを考察する。 (化石人類学・生体力学・精密工学等)
(2) 化石脳と現代人脳の定量的形態差から学習能力差を推定するために、現代人の脳に学習 機能地図を生成し、その所見に基づいて学習行動を制御する神経基盤部位を特定・定量化し、その結果によって化石脳の学習機能地図を生成する。
統合:学習仮説の検証
各研究班の作業仮説をすり合わせ、相互乗り入れを図り、その有機的結合のもとに学習仮説を総合的に検証する。
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学習は文化進化が起こるための基盤であって、現在の生物界におけるヒトの繁栄を支えてきた。本領域研究は、ヒトの学習について、①その進化の様態を考古資料に刻み込まれた物証の間に探り、②その現実の様態を現生狩猟採集民社会の野外調査を通して把握・記述し、両者の有機的結合によって、学習の統合的解明を目指す点においてきわめて独創的である。
本領域は同時に、遊びながら学び、遊びを通して創造するというヒト独自の学習行動の実態とそれを促進する社会・自然環境や脳機能の理解を目指しており、現実社会の学習環境、教育環境に鑑みて、現在および将来の学習・教育課題を検討する基盤としても大きな社会的意義を有する。
本領域研究の成果によって現実の諸問題に対する技術的対症療法を示すことはできないが、学習行動や教示法の進化の実態を明らかにすることは、今日のわれわれに対して現状の反省と警告を、われわれの将来に対して展望と希望を与えることができるという意味において大きな波及効果をもたらす。
具体例として、①歴史記述の素材として利用されてきた考古資料をヒトの行動進化や学習行動の実態を復元する基盤資料として活かす新しい考古学研究を拓き、 ②恣意的に進められてきた化石復元作業から、科学的手順に基づく髙精度の化石復元研究を拓き、 ③工学知を人文系諸分野における新しい科学知の創出に適用し、より客観的、普遍的価値を生み 出す人文学的研究を拓き、④個別科学の伝統的な専門知と脳科学等先端諸学が発信する専門知を統合する新しい知の体系の創出をはかり、⑤ヒトの進化に関する新たな実証モデルへの道筋を拓く等々である。そして、以上の実践を通して、次の時代を担う新しいタイプの若手研究者の育成に貢献する。
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- 代表者
- 赤澤 威:高知工科大学・総合研究所・教授・領域代表者;統括
- 研究分担者
- 森 洋久:国際日本文化研究センター・准教授・情報科学;領域情報環境構築・運用
- 研究協力者
- 近藤康久:東京工業大学・大学院情報理工学研究科・日本学術振興会PD・考古情報学
- 研究項目代表者(連携研究者)
- 西秋良宏:東京大学・総合研究博物館・教授・考古学;研究項目A01代表者
- 寺嶋秀明:神戸学院大学・人文学部・教授・文化人類学;研究項目A02代表者
- 青木健一:明治大学・研究知財戦略機構・教授・集団生物学;研究項目B01代表者
- 米田穣:東京大学・総合研究博物館・教授・年代学;研究項目B02代表者
- 荻原直道:慶應義塾大学・理工学部・准教授・生体力学;研究項目C01代表者
- 田邊宏樹:名古屋大学・文学部文学研究科・准教授・脳科学;研究項目C02代表者
- 領域評価委員(研究協力者)
- 甘利俊一:理化学研究所・脳科学総合研究センター・特別顧問・脳科学
- 石井紫郎:日本学術振興会・学術研究センター・相談役・法政史
- 内堀基光:放送大学・教養学部・教授・文化人類学
- 木村賛:東京大学名誉教授・人類学
- 古市剛史:京都大学・霊長類研究所・教授・霊長類学
- Ofer Bar-Yosef:米国・ハーバード大学・教授・考古学
- Nicholas J. Conard:ドイツ・チュービンゲン大学・教授・考古学
- Ralph L. Holloway:米国・コロンビア大学・教授・化石人類学
- Anne-Marie Tillier:フランス・ボルドー大学・教授・化石人類学
■ 運営方針
総括班は、領域代表者、分担者、研究項目代表者、外部評価委員、領域事務担当者で構成される。その任務は、領域全体構想の目的達成のために、各研究領域に対する支援活動・研究指導・評価を行い、その実効性を確保、促進するために有用な諸活動を企画・統括する。
【企画調整】
研究計画・進捗状況の相互理解・相互評価に基づき各研究領域に対する支援活動・研究指導を行う。
【評価指導】
研究計画・進捗状況の点検・評価に基づき全体構想・各研究領域に対する支援活動・研究指導を行う。
【公募研究】
領域全体構想の目的達成のため、「計画研究」により重点的に研究を推進するとともに、関連する2年間の研究を公募する。期待する提案は大きく二つに分類でき、一つは、計画的・重点的に研究する各研究項目と密接に関連するが、対象とする素材や分析手法等において補完する内容で、領域研究の充実と強化に資するもの、もう一つは、本領域の重点テーマ、とりわけ「交替劇」「学習」などについて、旧人ネアンデルタール・新人サピエンスという枠組みを越える内容で、本領域を基盤とする新たな研究領域開拓の礎となる挑戦的な研究である。
■ 活動方針
【異分野連携研究体制】
研究全体構想の実現には、人文系・生物系・理工系諸分野の専門研究の相互乗り入れが円滑かつ有機的に確保されることが必須条件である。総括班は、異分野の専門研究間の相互理解・相互評価を定常的に促進するために有用な領域環境を創出し、運用する。具体的には、各研究項目の進捗状況の点検・評価と研究成果を全体構想のもとに有機的に結合することを目的とする研究集会等を企画・主宰する。
【国際研究体制】
本研究テーマは世界的に注目されており、関連の論文、図書、研究集会開催はきわめて多い。国際的研究動向との連携を促進するために海外研究者ネットワークを組織・運用し、領域研究に有用な情報の交換と相互評価を国際的レベルで定常化する領域環境を創出し、領域の学術水準の強化と高度化を図る。
研究進捗状況の国際的評価を継続的に促進するために、研究項目ごとにミニ国際研究集会を随時開催するとともに、領域全体をカバーする国際サミット会議を3,5年次に開催する。3年次は進捗状況の国際評価を仰ぐとともに、海外の研究動向を探り、海外研究者との新たな相互乗り入れも視野に入れた研究企画調整を目的とし、5年次は取りまとめに向けて国際的評価を仰ぐ機会とする。
【領域情報環境】
総括班は、上記二つの研究体制の実効性を定常的に支援する以下の研究情報環境を創出・運用する。
(1)研究進捗状況を集約する「研究情報統合管理データベース」の構築・運用
(2)研究進捗状況を発信する機関誌、研究成果報告書の刊行
(3)ホームページ・公開シンポジウム・講演会等を企画・主催
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